面白いもの 主観客観
自分が面白いと思うものは分かる。
だけど、他人が面白いと思うものは分からない。
自分が面白いと思うものを他人も面白いと感じるだろうと信じるしかないのではないだろうか。
勿論知り合いに感想を求めることで面白さを客観的、公約数に近づけることが出来るのかもしれないが、たった数人に見せたところで一体どの程度客観的にすることができるのだろうか。
一般読者、作者、編集者によっても面白いと思うものには大きな隔たりがあると思う。更に時代という要素も関係してくるだろう。
そんな中で面白いものなんて本当作り出せるのだろうか?
結局のところ、選ばれるのかどうかは運だと思ってしまうのは、自分が未熟だからだろうか。
十文字青ができあがった小説のどこが悪いというより、そもそもアイディアがつまらないのだと考えるのが合理的なのではないかと言っているけど、でもだからといってあくまで「そのアイディアがつまらない」ことが分かるだけで、「どのアイディアが面白い」かは分からない。無限大にあるアイディアのうちの一つが面白くないと分かっただけであり、そこから得られるものは限りなく無に近いのではないかと考えてしまう。
次によくある話だから落ちると言っているが、そのよくある話というのも主観によるのではないだろうか。
執筆する以上、作者は「これは面白い」と思って書いた作品だろうし、よくある話だということを分かっていない可能性が高いと思われる。
勿論(時代に合った)面白さをリサーチすることは必要だと思うが、そのリサーチし自分なりに面白いと判断したアイディアでもつまらない可能性は大いにあるだろう。
結局面白いというものは自分でも判断できない。他人でも判断できない。衆人環視に晒されてようやく分かることでしかないのではないか。
そんな状況の中で面白さを求めるということは、あまりに無謀な事に思える。
つまり、何が面白いのかなんて分からない(何が評価されるかなんて分からない)のだから、自分が面白いと信じたものを完成させてみるしかないとしか言えない。
よくある話ではなく、かつアイディアが良い(しかもそれは世に出るまで分からなく、自分でも他人でも個人では判断できない)ものを作り出すことのなんと困難なことか。
乱暴な言い方をすれば、過去の経験が生かせないものをゼロから何度も作り続けるような苦行である(勿論作るという行為についての経験は活かせるだろうが)。
もっといえば、事前にどんな教科が出てくるのかも分からない試験で合格点を取るような無謀。しかも採点方式は変動している。普通に考えて無理ゲー。
結局、意味がある「かも」しれないリサーチを延々と続け、自分が面白いと思うものを盲目的に信じ、それらの条件がたまたま合致した場合にしか受賞できないのではないか。
だから私は数撃ちゃ当たるがこの試験方法で最も有効な作戦なのではないかと考えている。
もしここをどうこうすれば受賞できるという方程式のようなものがあれば是非知りたいと思う。
それが分かるまで、私は盲目的に努力し続けるしかないのだろう。
そして多分、答えはでない。合格するまでは。